理事長 小林 修三
湘南鎌倉総合病院 院長
日本フットケア・足病医学会 名誉会員、日本医工学治療学会元理事、
日本腎臓学会功労会員、日本高血圧学会功労会員、日本内科学会評議員、
横浜市立大学客員教授、昭和音楽大学客員教授 等
NPO法人 癒しの医療を考える会は、
「癒しの医療を求めて医療者と患者様が
一体となり、病気を克服していくこと」の
実現を目指して、湘南地域を中心に春と秋
の年2回の医療講演と演奏が一体となった
クラシックコンサートを開催しています。
近年の目覚ましい医学の進歩により、多くの病める人々がその恩恵を受けるようになった一方、残念ながら未だ心が癒されない方々も多くいらっしゃいます。
癒すためには心地よさが必要です。死ぬか生きるかではなく、不全治癒が増加した今日ほど、caringという「思いやり」を医療の原点に据えて考えていかなくてはならないと思います。ちょうど、熱を出したわが子の額に母親がその温かで優しい手をそっとあてがうような、心地よさや安心感を私たちは忘れてしまっているのではないかと思います。英雄的な先端の治療により、そこだけが治癒(curing)しても、caringが無ければ、心は癒されないのではないでしょうか。
NPO法人癒しの医療を考える会は、このような考えのもと、患者と医療従事者との関係を同等の立場で、その原点から見つめなおそうとする機運の高まりにより生まれました。
ここに、この会が生まれるきっかけとなった、NPO法人癒しの医療を考える会現理事長、湘南鎌倉総合病院院長代行、小林修三のエッセイ(2000年4月号朝日メディカル「異見医見」に掲載)を全文紹介します。
医学がこれほど発展したとは言え、今日どうしてこれほどまでに医師に対する患者の不満が多いのだろうか。人々は医師に対してますます不信感、さらには敵対心さえ抱くようである。明らかに不注意で低次元の医療過誤を別として、多くの医療従事者がそんなはずは無いと考えるのに、医療訴訟は頻繁に起こっている。医学の進歩と医療費削減への課題、管理された医療と誰しもが望む温かな癒しの医療との両立は果たして可能だろうか。最前線の医療現場で一体どのように解決して行うべきであろうか。
ある患者さんが私の外来にやって来て泣いた。彼女の泣いたわけはこうだった。お正月に苦しくなって大学病院へ運ばれたら、若い医者が来て、なんの説明もなく、話もろくに聞かないうちに、いきなり首に何度も太い針を刺した。挙句の果て、おなかが減ったというのに食べさせてもくれず、まるで生き地獄であったから自己退院してここへ来た、というのである。これは、癒されない医療の代表であり、医療行為のプロセスの明らかな誤りの一例である。医療過誤がどうのこうのと言うような問題以前の、低い次元の話にも関わらず、これに類した話を時々見聞きしなくてはならないことはとても残念なことである。 訴訟やクレームの大方の原因は生じた結果そのものというより、医療の進め方、プロセスに問題があると言えよう。医療の進行課程で、すでに憤懣やる方ないのである。患者の不安を見抜けないか、無視しているのである。 その最大の要因はコミュニケーション不足である。コミュニケーション不足とは、全く説明し了解を得ようとする気がはじめから全くないか、あるいはその気があっても、人(患者本人または家族)との会話ができないかのどちらかである。これは、医師から患者への一方的な指示や告知というものではなく、対話でなくてはならない。医者ご本人はきちんと説明し了解されたものと思いこんでいる場合もある。あくまでの双方向の会話でなくてはならない。会話ができると言うことは、共感を持って、耳を傾けようとすることであり、そこに生まれる思いやりと共感こそが医療の原点であるはずである。 もう一つの要因は、患者のおかれている状況の具体的な説明が無いと言うことである。病状は刻一刻変わるから、そのつど報告すべきである。誰しも、今どんな状態なのか、あとどれほど待たねばならないのかを知れば、それなりに落ちつくものである。たとえいかなる可能性や危機が残されていようと、その時に考えられる最高の医療を行っているという確固たる信念に満ちた態度があれば、おのずと相手の目をしっかりと見据えた会話となろう。目を見て話すことで、医者のすべての思いが伝わるものである。しかし、こうした確固たる信念とは簡単にできるものではない。だからこそ、若き医師も経験ある医師も常に必死になって日夜勉強するのである。
しかし、ここで述べたいことは上で述べた当たり前のことではなく、むしろ、こういったことが今さらながらに強調され、勘違いの事務的な、いわば冷たい医療に対する危惧である。裁判を恐れた、形だけの書類と事務的なマニュアルのごとき説明は、必要であっても十分ではないか、時には弊害さえもたらすことがある。
冷たい医療とは、証拠に根ざした医学だけが一人歩きした場合である。医療が医学に基づくものでなくてはならないのは言うまでもないが、そこに人へのおもいやりが加わらない場合である。医師にはものを分析する科学者の目と、人を見る温かな目が必要である。先の例で見た場合、頚からの中心静脈栄養が必要であるという証拠に根ざした医学が必要であったとしても、お腹が減ったという気持ちへの思いやりがあったなら、なんとか説得するか、口からの補給も併用して、満足感の多少でも満たしてあげようとする「思いやり」が行動にでたはずである。訴えられることは無いだろうが、果たしてそれで良いのだろうか。ひどい場合には、患者のほうがわがままだったからと非難されかねない。だから、患者は癒されない。
これまでの医学が物質としての肉体のみの異常を追究し、治癒せしめんとしてきた不幸な歴史といえる。それは、いわば精神と肉体を分離したデカルト的思想の弊害なのかもしれない。死ぬか生きるかではなく、不全治癒が増加した結果が今日のcaringという「思いやり」を改めて考えさているのである。英雄的な治療により、そこだけが治癒(curing)しても、caringが無ければ、心は癒されないのである。
この癒し(healing)のために、医師以外の、さまざまなco-medical staffが同じ土俵で、共に全力を尽くすことになる。我々の病院では、事務職員、クリーニングの職員など全員に、医療に携わる一員としての自覚をもたせている。そのための教育も徹底している。毎朝病院幹部が朝礼で指導と徹底に努めるぐらいに全力をあげなくては到底維持できない。病院幹部は、職員全員に対し、自分自身が医療を施す一人であるという意識と誇りを植え付けることが重要である。
しかし、ここで、もっとも難しいのは医者に対する指導である。そして、ここがもっとも問題をかかえている場合が多い。医師は自分の仕事はここまでとあまりに簡単に割り切っていることが多い。割り切ってもいいが、少なくともその場合、回りのスタッフがきちんとフォローしているかどうかの監督責任があるはずである。不安や不快感を患者には絶対に与えないことを念頭におくことであり、医者自身、常にもっと真剣に考えていかなければならない。
こういう意識の問題について「癒す」という観点からの教育が不足している。
冷たい医療の一例は、こうである。病状説明について、医学上の客観的データのみを端的に述べることは、科学者としての医師の冷静な態度の表れであり、そのこと自体は患者に安心感を与える一つの重要な医師としての資質である。しかし、さあ、そのあとどうするのですかとなると、当病院では診ていけません、もう私のやるべき事はおわりだから帰って下さい式の医療となるのである。適切な医療者あるいは医療機関の紹介さえしない。告知(告知という言葉自体、私は嫌いである。これほど恐怖心を煽る言葉は他にない)の問題にも関連する。告げるからには、とことんその気持ちを思いやる心が欲しいし、どこかに希望を見つけて言葉にしてあらわしてあげることで、どれほど患者は落ちつくことだろうか。告げるのではなく、わかってもらうのである。医者は裁判官でも検事でもない。そこに励ます医療が欲しいと感じる。患者の手を握って「だいじょうぶですよ」と言ってあげられるような医療が欲しい。たとえだいじょうぶでなくとも、そのように言うことの勇気と思いやりが欲しい。
例えば、患者の前での医師やナースのちょっとした会話、ちょっとした動きについて患者はどれだけ不安になるか、軽率で不適切な言葉、例えば、「生きているのが不思議なくらいだ」とか「よくここまで放っておきましたね」などと恐怖感だけを植え付けるような言葉は慎むべきである。こういった事に対する、教育の重要性について考えてみたい。 本来、指導や教育の必要性もない、人間としての基本的なしつけに始まる最低限の他者への配慮の問題かもしれないが、このあたりから現場での指導が必要となっていると言わざるを得ない。言い換えれば、そのようなことについて、これまで医者は特に教育されていなかったのである。医学知識は学ぶが接客業としてのマナーなどは学ばない。医師への教育として、医学部教育の中で、人との会話ができるかどうか、人を不愉快にしないかどうかなどの問題は最近ようやく重要視されはじめたことは何よりだが、それだけでは不十分である。病院現場でことごとく毎日のように指導していかなくてはならない。学部の総論講義などでは無理で、実践現場での細かなチェックが必要である。そのためには、本気で取り組むリーダーが必要である。 患者を癒すためには心地よさが必要である。そのためには、きびきびした礼儀と心使いが重要である。いっそ、一流ホテルでの研修でも受けたらどうであろうか。しかし、これらは個々の人間の感性の問題にかかわるから、自分自身をゆっくりと見直せる機会をもっと作るべきである。音楽や文学などに触れ、どう感じたか自分の感性を実感することで常にふるえるアンテナを持っていて欲しいと願う。 教育についてはもう一つ重要な点を感じている。それは、医療者だけではなく、患者への教育、啓蒙活動である。自らの病気についてもっと関心を示し、自ら学ぶ姿勢を持ち、実行する意欲と必要性についての認識を持ってもらうことである。このために、医療者側はあらゆる努力をして支援すべきである。そのためには、地域での医療講演が威力を発揮する。熱意をもって講演し説得すれば多くの患者は頑張ろうとするものである。そうすれば、信頼を寄せ忙しい5分の外来診療でも、なんとかやっていけるはずである。
おもいやりと共感のある、温かな癒す医療は、組織の肥大化や医療改革に伴って、運営効率をあげなくてはならなくなった今こそ本当に必要である。患者の目をみて話すこと、身体に触れること、注意深く選んだ言葉による心地よさや安心感の提供というような基本的なところから始まる。こういったことを病院で働くありとあらゆるスタッフに、自分が医療者の一人であるというやりがいを持たせつつ徹底させることである。このためにこそ、毎日の現場での教育と指導が必要となる。ここで述べた医療を展開するためにはあまりに忙しい外来診療体系を見直さなくてはならないと感じるが、改革を待ってはいられない。5分の診療の中で全力投球するしかない。
湘南鎌倉総合病院 院長
日本フットケア・足病医学会 名誉会員、日本医工学治療学会元理事、
日本腎臓学会功労会員、日本高血圧学会功労会員、日本内科学会評議員、
横浜市立大学客員教授、昭和音楽大学客員教授 等